完結
見間違えた男
〇〇〇〇の話をしよう。
どうして俺がその〇〇〇〇の話をしようと思ったのかといえば、テレビの向こうで「絶世の美女が〇〇」というしょうもない特集をしていたからだ。ブラウン管からその絶世の美女が登場するが、さして美しくない。それもそのはずで、俺は本当の「美女」を知っているからだ。最初で最後、あのような美しい女は見たことがなかった。そこで、ふとその〇〇〇〇を思い出したのだった。
〇〇〇〇はある少女の名前だ。どうしてか、名前は忘れてしまった。容姿や声は今でも鮮明に思い出せるのに、どうしてか名前だけはすっかりと消去されてしまっていた。思い出せなくてもどかしいことはなく、「まあ、どうでもいいか」とすんなり思えた。
〇〇〇〇とは、中学生のとき3年間クラスを共にした仲間だ。
しかし、仲間というには語弊がある。何故かというと、彼女とあまり接したことがないのだ。良く言えばクラスメイトであり、悪くいえば「置物」のような存在だった。
〇〇〇〇はクラスメイトから無視されていた。
いつも窓際の席に座って、読書かノートを熱心に取っている彼女は好成績で毎回上位であったが、教師は誰も彼女を褒めることはなかった。彼女が1位だったら、教師は2位になった者しか褒めない。貼り出された用紙にはちゃんと名前も書かれてあるのに、まるで無意味と言わんばかりに存在が無視されている。2位の者を褒めるとき、彼女は本当に寂しそうに―しかしながら「しょうがない」と諦めの表情でその光景を見つめていた。
クラスメイトの女子が寄り集まって、彼女をイジメることも多々あった。ノートを破ったり、悪口を言ったり、ありもしない噂話を立てたりして、でもみんな咎めることなく「当たり前だ」といわんばかりの表情で遠巻きに眺めていた。それは俺も同じで、しかし「そうして当たり前」とは一度も思ったことがない。ああいった行為に虫唾が走ったのも事実である。
ならばどうしてこの事態を見過ごしていたのかといえば、俺はそうされている彼女の存在に心奪われていたからであった。
諦めと悲しみが入り混じった〇〇〇〇の顔は、時間が経つのも忘れてしまうほどに魅入ってしまう。それは例えるならばモローのオルフェウスのような残酷さと、神秘が入り混じった美しさがあった。人々の心が残酷で、それ故彼女の美しさが際立っていた。俺はそんな〇〇〇〇を、ずっと保存しておきたい、と思っていた。
たとえ殴られても、それを甘んじて受けて止めていた〇〇〇〇は、そうされた後、ぎゅっと何かを留めているようなそんな表情になる。なにかを押さえ込んでいるような。そうして翌朝、殴った少女たちの顔を見て、ほっと安心したように顔を緩めた。どうしてそんな顔をするのか俺にはよくわからないが、それは彼女にとっても、イジメっこにとっても、重要で特別なものを感じた。
〇〇〇〇とは、過去に一度だけ話したことがある。ちょうど進学のアンケートを配られたその日の夕方、俺と彼女は偶然にも居残りをした。彼女ぐらい頭の良い子ならランクの高い高校を選べるのに、彼女はそれで迷っているようだった。俺はさほど成績は良くなく、学校に行くのも億劫で、しかし行かないわけにもならないので、しょうがなくランクに合った学校を探していた。
夕映えに染まる彼女の顔がそれはもう美しく、俺はまたもや魅入ってしまっていたらしい。ふと目線が合うと彼女は微笑みながら(初めて見た)「××くんも、決めかねているの?」と問いかける。
「学校行きたくないんだよ」声が少し震えていたかもしれない。
「どうして?」
「面倒だから。もう社会人になりたいんだ。学校なんて出ずに働きたい」
学生でいることに疲れてしまった俺は、いち早く家を出て行って一人で生活して行きたいと考えていた。しかし、今の時代では中卒を雇ってくれるところもないだろう。
「そうなんだ」
〇〇〇〇の声は少し悲しそうだった。
「…私も、これからどうしようかと思って」
ぽつんとそう話しかけて、それから俯いて「私はこれからどうなるんだろう」と言った。泣きそうな声だった。当たり前のように高校に進学すると思い込んでいた俺は驚いて、そうして黙った。これからどうなるか、俺にもわからない。居場所、イジメ、無視、置物。どうして生きていこう。本当に彼女にはなにも与えられてない。まるで最初からないもののように―。だからこそ美しい。
「…変なこと言って、ごめん」
そう言って〇〇〇〇は立ち上がった。手に持った進学アンケートは、白紙だった。
それからずっと、彼女とは会話していない。それからは相変わらずだ。苛められている〇〇〇〇を盗み見て、切り取っておきたいと思う毎日を過ごした。
3年生の終わりになって、彼女は前よりももっと―美しくなった気がする。どうしてか俺にはわからないが、きっとなにかが彼女を―変えかけたのだ。
〇〇〇〇は3年間1度も休まず学校に来たというのに、俺と関わった時間5分も満たない。何も進展がなかったな。残念だ。願わくばなにものにも縛られない残酷なほど美しいあの佇まいをずっと傍で見ていたかったのだけれども。
テレビを見た次の日。街の中を歩いていて、ふと俺は立ち止まった。
〇〇〇〇が目と鼻の先にいた。
電撃のようなものが俺の背筋に走った。声をかけたいと思ったのに、動きも声が出ることも出来ない。時が止まってしまったかのようだった。
〇〇〇〇は前よりもっと美しくなっていた。しかし顔は、あの時俺が望んだ顔ではなく、幸せに満ちていた。彼女の先には誰かいて、それが〇〇〇〇の手を引いていた。それは俺たちよりもずっと年いった、30歳手前の男だった。2人でなにか楽しそうに喋っている。恋人だろうか。そんな風に見える。
違う。と俺は思った。
俺の目の先にいる人は確かに〇〇〇〇なのに、でも違う。あれは〇〇〇〇ではない。他人だ。だって〇〇〇〇はあんな顔しないのだから。
あの時―なにかを諦めた顔で悲しげに俯く〇〇〇〇の顔。それが俺にとっての〇〇〇〇だった。だからあんな幸せそうな女の顔は知らない。誰だろう?あの人…。随分と幸せそうだ。憎いほどに。
俺は、彼女が目線を合わす前に下を向いて反対側のほうに踵を向けた。寒空が背中を押して、俺と〇〇〇〇の記憶だけをいつまでも凍らせていた。
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